To. ZENS0

日々の備忘録的なサムシング

初めての記事

 「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」

 日本を代表する日記文学土佐日記」はこの一文から始まった。高校までの義務教育を受けた人間であれば、誰しもが耳にしたことがあるだろう。今までブログどころか私的な日記すら書いたことのない私が、友人から一度やってみないかと誘われたとき、何を書くかよりも、この一節を最初に持ってくることが真っ先に思い浮かんだ。日記とは本来、日々の雑事を書くことが第一義であることを考えたら、私のこうした姿勢は間違ってはいるが、紀貫之のシンプルにして美しい表現を一度は使ってみたいと思うことは、日本人である以上拒むことのできない誘惑である。もっとも、より正確を期すのなら、「友もすなる日記というふものを、吾もしてみんとてするなり」といったところになるだろうが。

 さて、土佐日記が世に出て以来何度も繰り返されてきた、いささか陳腐な冒頭ではあったが、そろそろ表題について書き綴っていきたい。

論理的話法

 論理的話法と銘打ってはいるが、別に大それたことではない。私なりの論理的な話し方に対する理解は、将棋あるいはチェスと同様の構造を有している、ということである。

 将棋やチェスの対局をご覧になったことのある方はご存知だろうが、王様が詰んだから投了・リザインしてそこでゲームは終了、という訳ではない。どこが悪かったのか、どうすればよかったのか、といった検討も綿密に行う。この過程において驚くべき点の一つに、棋士は対局における本筋をすべて覚えているということがある。

 ここで、本筋をXと置こう。このXはいくつもの局面a,b,c,d,...によって構成されている。その個別の局面において、例えばaの盤面から別の駒の動きを検討していき、a',a'',a''',,,などと、徹底的に検討していっても、即座に本筋Xに戻ってb,c,d,...へと進むことができるのだ。

 論理的な思考あるいは話し方にも同様のことが言えるのではないか。

 まず、話者本人に絞って見ると、話者は話している本筋Xについて、それがどのような構成要素a,b,c,d,...によって成立しているか把握しているため、それぞれのa,b,c,d,...について、聴き手に対して分かりやすい形で伝えることができる。トートロジー気味ではあるが、構成要素がどう本筋Xに関連づいているのかを知っていれば、それ相応の話し方ができる。というか、分かりにくい話をする人はおしなべて全体構造を把握していない。そして、これを二人の人間同士の対話に拡張すると、将棋における検討のように、構成要素aに関して深く議論していても、本筋Xが分かっているためすぐに元の話題aに戻って話を先に進めることができる。あるいは、本来はbでするべき話βが出てきたときに、それは違うのではないかと指摘し、掴みどころのない議論を避けることができる。

 同時に、相手の立場と自身の立場をきちんと把握し、対話の中でそれぞれの考えがどう位置づけられるのかを考える必要も出てくる。例えば、構成要素aに関して対話している際に、私がαという意見を出し、相手がβという意見を出したとする。ここでどうしてその違いが出たのかを考慮すると、実はそもそもの相手の立場がBで私の立場がAであり、Bという立場からしたらaにおいてβの話をすることはおかしな話ではない、ということがありうる。そのことを考慮せずに、「βはおかしい」と指摘するだけでは表層的な対話に終わってしまうおそれがあるのだ。きちんと相手の立場Bを理解し、対話全体の中でどう位置づけられるかを判断して、初めてβという意見が真に棄却すべきものかどうかが分かるのだ。それがそういう意味では、相手の話を聴いて理解する能力、つまりコミュニケーション能力は実際に重要である。

終わりに

 このあたりの話題はまだ自分の中で消化しきれていないが文章にまとめることで一旦整理しておく。